転職サラリーマン敗走記:仕事に疲れて会社を休んでいた頃の話

30代のはじめ、最初の転職でつまずいた。大手金融でそれなりに成果を出していることを自分の力と勘違いして、「俺はこんなところで終わる人間じゃない」と経営コンサル会社に移ったのだけど、そこであえなく撃沈した。

先輩や同僚は皆猛烈に働いていた。ぼくも早く彼らに追いつこうと必死だった。先輩について日本中を飛び回り、移動中も1分と無駄にせずPCと向き合って仕事をこなし、自宅には終電後に自腹のタクシーで帰る日々。それでも先輩の激烈な仕事ぶりにまったくついていけず、心はすさんで、当時新婚だった家庭も一気に崩壊の危険水域へ突入した。

あっという間に心身とも廃れきって、やがて会社に行かなくなった。ある朝、いつものようにうなされて目が覚めたのだが、ふとんから出ることができなかった。いい歳した大人が、仕事に行くのが怖くて、ふとんの中ですすり泣きした。情けないとは思わなかった。そんな余裕もなかった。その日から、ぼくは自宅に引きこもった。

毎日、別室で寝る妻が仕事にでかけたあとにふとんから出て、インスタントの朝食をとり、着替えもせずだらだらとテレビやネットを眺めて時間をつぶした。飽きると本を読んだ。むかし愛読した小説と漫画。それまで狂信的に読んでいたビジネス書のたぐいはぜんぶ本棚の奥に押し込んだ。目につくと気分が悪くなるからだ。それらの本で描かれるエリートサラリーマンと同じ道を順調に突き進んでいたはずの自分が、あっさり挫折して敗走した……自室のビジネス書が目に入るたび、そういう負け犬感情を勝手に膨らませて惨めな気分になった。

外出は食料品の買い出しなど最低限に絞った。外を歩くのは辛かった。誰も自分のことなど見ていないのに、卑屈な心の中で膨れあがった過剰な自意識のせいで、どうしても他人の視線が気になってしまう。すれ違う人びとが自分をせせら笑っているような気が本当にして、自分はもう社会から必要とされてないのだな、という諦めの感情が日に日に大きくなっていった。

そんな暮らしでも腹は減る。食べるものを買いに出る。近くのスーパーへ行く途中、小さな公園があって、数匹の猫がよく戯れていた。そばに建つ民家の老婦人が世話をしているらしかった。平日の日中、公園はいつも人影がなく、イチョウやケヤキが並ぶその下に据えられた木製のベンチにひとり座って、足元の落ち葉やそれを踏むハトの群れ、ハトをじっと見つめる猫たちを、時間も忘れて眺めたりした。同じ生き物でも、ハトや猫の存在は苦痛に感じなかった。自分の抱える人間的な悩みなどとは無縁に見える猫やハトは、ぼくを穏やかな気持ちにしてくれた。

猫は気まぐれで、いつも姿を見せてくれるわけではなかった。無邪気にじゃれあう猫たちに会いたくて、自然と、彼らがよくひなたぼっこをする正午すぎの時間帯に出かけるようになった。秋の冷たさを含んだ風は頰に心地よくて、自動販売機で買った缶コーヒーを手に公園に寄るのがいつの間にか日課になっていた。

毎日のように通ううち、猫にも個性があることが知れてきた。コーちゃん、と世話役の老婦人が呼ぶ一匹はまだ若く、好奇心が旺盛で、いつでも活発にはしゃぎ回る。人間にも興味があるようで、ベンチでくつろぐぼくの足にすり寄ってきたりもする。一方、白い毛並みでしっぽの丸いメス猫はいくらか歳を重ねているのか、落ちつきがあり、いつも慎重で、ぼくが舌を鳴らし手を伸ばしても決して近づいてこなかった。

そういう個性をもった猫たちは、それぞれ、飾らずのんきに毎日を過ごしていた。彼らに会いにいく日々のなかで、少しずつ、本当に少しずつだが、心が癒されていった。

あれから5年ちかく経ち、紆余曲折をへて、現在は別の仕事で忙しく働いている。家庭もなんとか持ち直した。

二歳になる息子と、今でもときおりあの公園に足を運んでいる。猫たちはみな変わらず元気だ。老婦人も健在で、コーちゃんは今年五歳になったのだと先日教えてくれた。

歳相応に大人の落ちつきをたたえたコーちゃんを、今は息子が嬉しそうに撫でている。ぼくはそのさまを眺めながら、猫たちに、ありがとう、といつも心の中でつぶやいている。

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